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日本・中国・西洋から探究した技芸の要

調和への技法で訓練された精神と、世界の変化との、差異をとらえる。
様々な物事の未知の相互関係や発展性を見い出すため、自らを柔弱におく。
目指す物事が達成されると無条件に信じ、可能の根拠を積み上げていく。

もうすこし詳しい説明はこちら
http://glasperlenspiel.blog.so-net.ne.jp/2012-02-26

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「進みながら」「ゲーム理論」「アナログ・ハイテク」 [記録]

比喩として。最初の航海を終えて、最初の港につくことができた。
この三年間に見い出した多くのものが、エッセンスに集約されていき、
まるで消えていくように見える。

「無形」に関する気づきがあったから。
いくつか残すのは、「思い出すため」だ。

昨日の囚人のジレンマのツイート。
最大のメリットが期待されるリスクのある選択は「パレート効率的な選択」と呼ばれる。
他の変化がどのようになっても、自分の選択のリスクが最小になる選択、
パレート効率的でない選択を人は好む。
他に、最大の損失を最小にする人の傾向に、ミニ・マックスがある。

損失を最小にする選択が、新しく何かを始める利益の選択より、
優先される傾向、主観的にも分かる。
新しい利益に向かう間、自我や自己信頼を支える根拠を感じられずに、
試みることになるので。
自我や自己信頼を感じられなくなっていく方向へと挑戦していくことは、
訓練していない人間には、難しい。

大学を卒業して、ご自宅で勉強させていただいた方は、
ドイツから勲章をもらっていた恩師井手賁夫の他、
本社だけで千人が働いていた企業の創業者の一人であり顧問であった水内慎一氏。

戦争で部隊を指揮していた水内先生は「まわりの状況が不明で、
しかも危険である時の、一番安全な選択は前進すること」と、おっしゃっておられた。
いまは正しいと思う。

なぜなら、「その選択をする人は他に小数であるから」。
また、前進することは、本来のミッションのエッセンスの具現であるから。
他、「迷いは変化をパニックに変えてしまう」という
格律(主観的妥当性)が思い出される。

困難をともなう、精神的な探究は、歴史的にも一人で行われることが多かった。
いまは一人ではなくなってきている。
私の、あるいは私達の分野で、“(インターネットの)海”を経験していくことは、
いずれ社会への貢献の広がりになるだろうと、確からしく感じている。

水内先生の「周囲が不明で危険な時、最も安全な選択は前進すること」は、
ミニ・マックスの選択ではないな、と気づく。
これは、「ゲームを俯瞰した場合の、パレート効率的な選択」だ。

ゲーム理論は数学の一分野。
そして、「損得の折り合う点『ナッシュ均衡』」や、
「メリットを見い出す『パレート効率』」や、
「変化のなかで一時的な損失を小さくする『ミニ・マックス』」など、
日本の政治家や官僚が国民に伝えて、伝達力と客観性が両立する、
様々な考え方を与えてくれていると感じる。

ゲーム理論を創始したフォン・ノイマンはIQ300だったとも言われている。
実際には、IQは200以下までしか確かめることができない。
「ノイマン」、そう、いま私達が使っている「ノイマン型コンピューター」を
発明した人でもある。

ノイマン型コンピューターは、
大陸間弾道弾の軌道計算のため、
発明にアメリカの国家予算が投じられた。
ノーベル賞には数学賞が無いこともあり、
フォン・ノイマンはノーベル賞を得ていない。

1969年のアポロ11号による月面着陸に用いられたコンピューターは、
1980年代のPCの2倍程度のスペック。
しかし、「専用型」と「汎用型」の差は、
1980年代の関数電卓とPCのマシン・スペックの違いと、
現代のPCとガラパゴス携帯の差を想像してみると、イメージしやすい。

目標を定め、それぞれの分野の専門家が、
あらかじめ計算しつくしたデータと法則性を出しつくし、
そこに最適に設計されたコンピューターを、汎用機と比較するのは、
そもそも比較に馴染まないレベルですらある。
専門性は分野の限局であるけど、
それ以前に広く検証され尽くされている場合は。

バラモン教には、宇宙観やヨガなどの実践性の深さと広さがあった。
ゴータマ・シッダールタは、それについて、思考を整理する姿勢や、
因果関係など時間的空間的広がりを取り込んだ世界観を用意し、
生きている人々の誰もが取り組めるよう伝えたという、
当時の「アナログ・ハイテク」だったと思う。

この、
「生きている人々の誰もが取り組める」という
「アナログ・ハイテク」をおこなった人は、
中国にもおられた。

孔子である。

天命を受けた皇帝以外の、一般の人々も、
「皇帝と同様に君子であれる」ことを、
深く・広く・鋭い精神と思考の取り組みによって、
明らかにしていった。
私学の範囲。

十分な資料を得ていないけれども。
真理や哲理への取り組みが人々の心の目を開かせると、
その心の目が開くことが、字を読めない人や、
生まれながらの不幸によって堕ちていった人々に、
いかに伝わるかについて試みる時に、
バラモン教からヒンディー教への流れ、儒教の道教への和解の過程で、
再び、学びなおしたこと、再発見したこと、
互いに進めあったことがあったのでは、と、私の深いところで感じる。

「心の目が開かれた。
しかし、生まれながらの不遇や不幸から、いまはそうあれない人々がいる」、
そう深く感じた人々がいた時、その人は何を行なうだろうか、
ということから。
 
 
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【まだ思考されていない物事に応じる過程】

人が思考しうる物事のなかには、
まだ思考されていない物事があります。

もし全てを思考し終えている存在者があるとすれば、
神のみです。

芸術も、
思考されうる未知の物事に応じる方法の一つです。

技芸は、
美または調和のモデルを用いて自らの活動を体系的に把握する、
姿勢であり、過程です。

2012年3月30日
響 西庄 庸勝

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